バナナの花ー(1)ナツメロが椰子の樹陰に
フィリピンで一番親しまれている日本の歌といえば、先ず「此処に幸あり」と云うことになるだろう。女性のやさしい恋心が、内に強さを秘めて生活に立ち向う。それを天然自然に託して表す。メロデイの甘さや盛り上がりに、英語の歌詞の起承転結に程好くはまっている。元来地元の人たちは南国的、ラテン的なロマンチズムに加えて、東洋的もののあわれの感情を漂わせて居るが、その人たちが滑らかに直訳された英語の歌詞で歌う雰囲気は、外国輸入された曲とは感じさせない。
或る時、この歌は戦後作られたと聞かされたが、私はどうも信じられなかった。そこで知人に日本ナツメロ愛好会の会長さんがいたのを幸い、手紙で尋ねた。返事が来た。「これは昭和三十年に歌手が大津美子で発売されました。ナツメロの定義には幾つか在ります。SPレコードに吹き込まれたもの“というのも有力な説です。 この分類に従えば、最終時限のところで適合するナツメロと言えます。 ニ十年以上前の日本の歌が今でもそちらで愛唱されているとは嬉しいことですね。」
嵐も吹けば雨も降る 女の路は何故けわし
君を頼りに私は生きる ここに幸あり青い空
この歌詞では、女性の主体性は少なく、男性に頼って、日陰で小さな幸福に甘んじるー といったことすら想像されたりするのである。私が戦前の歌かと思っていたのは見当違いとは言えないだろう。 現地の人に日本語で歌われる時には、少々なまって「ワダシワイキル」とか「ココニサツイアリ」とかになってしまう。何回も違った機会に聴かされている内に、不思議な共通点に気が付いた。 十人が十人共「女の路は何故険し」と歌う。 母系家族制の名残が強く,遺産相続に息子、娘の差別がない。戦前から女性管理職が珍しくなかった国である。さりとはいえ、男性が虐げられて女性の横暴に泣く と云った場面はいかにも無理がある。
どうしてフィリピンに来た日本人は皆が皆、共通して偽(ニセ)の歌詞で歌ったのだろうか、海外でわざわざ汚い日本語を教えて、後から来た日本人に持ち出させて困惑させるように仕向ける。 そんな悪い悪戯に出食わすことがある。けれど、これは程度の低い思い付きの替え歌とは違う。ふた月、み月と 単身赴任の生活が経過するにつれて、だんだん違った感じを受けるようになって来た。 この歌詞が自分に訴え掛けて来て、それについつい引き込まれてしまうのである。
《毎日々々全くその通りの生活だなー。こちらの気持ちがなかなか分っちゃ貰えないんだから、嘆きたくもなるんだよなあ・・・・》 と浮びあがった自分の悩みを、 ―男の路は厳しいね― とうなずき、聞き取ってくれるかのように感じる。そして後半に入ると、程の良いところでブレーキを掛けて弱気の垢を洗い流しにかかる。 仕舞いのくだりになると「人生到るところ青山ありー 」と諭した上、ドーンと背中を叩いて、「しっかりせい- 」と言うが如くである。その時その都度、悩みは世事万端いろいろ違ってはいても、毎回同じ単純明快なパターンで、効験あらたかに激励してくれる。
神武景気だの、経済発展のエポックだ のと囃されてはいたものの、国際収支の黒字基調が定着するようになったのは、昭和四十年代に入ってからである。昭和三十九年には七十八回転のSpレコードが未だ生産されていた時代なのだった。日比賠償協定がやっと調印に漕ぎ付けたのは昭和三十一年五月九日である。
協定に載って、日本から多くの商社マンやメーカーの技術者が送り込まれた。その十年ちょっと前には、日本が加害者となって、フィリピン人を百万人以上殺している。 そんなアジア最大の激戦の名残が生々しく残って居る国に、家族と離れ、単身で赴任して来た男たちは、昭和三十年代をどう生きたのだったろうか。
「男の路は何故けわし」と歌ったのは自然な心情発露だったのだろう。 因みに当社が初めて比国駐在員を派遣したのは昭和二十九年であり、マニラ事務所を開設したのは翌々三十一年八月である。
それにしても この替えられた歌詞がどうしてこうも堂々と まかり通っているのだろうか、英語の歌詞を聞き取れるようになって、納得が行った。
Stormy wind of life may blow,
And even rain may fall.
Though the clouds are dark above,
Life would be bright for me.
I live because of you only,
I live because of we have love.
Kokoni sati ari,
Beyond the blue blue sky.
この人たちは男女を問わず自分たち自身の歌として、心を託して歌っている。偽者を歌って居るのではない。敗戦杯性。敵国人として独り出稼ぎしていた日本の男の気持ちと戦火で荒らされた地元民の厳しい経済生活での感情が共鳴した。女性の恋心を基にして日本に生れた歌が、フィリピンに渡って、男女を問わず、愛情を頼りに困難な人生を強く生き抜こうと云う歌に変身させられたのだった。
私の滞在も月を重ねると、周囲の人たちの歌に和して英語の歌詞が口を突いて出て来るようになった。日比人同席の宴が弾むと、先ず例外なくこれが歌われ出す。すると私は「アナザ ラウンド オブ ドリンクス!」(一同にお替わり!)と注文する。歌が終わったところで、立ち上がって叫ぶ。「日本・フィリピン共通の愛唱歌の為に乾杯!」そして、私は心中、我が先達の労苦を偲んで、敬意と感謝の杯を捧げるのであった。
終り (1972、Tokyo)